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中国共産党の歴史

中国共産党の歴史

中国は2049年に建国100周年を迎えます。
中国では、その記念すべき日までに
経済、軍事、宇宙開発などのすべての面で
世界のトップに立とう!
という目標を掲げて進んでいます。

建国100年と聞いて疑問に思った方も
いらっしゃるかもしれません。
「中国は4000年の歴史があるはず・・・」
ですよね?

中国が「中華人民共和国」と国の名前を改めたのは
つい最近の1949年のことです。
その前は「清」とか「明」といった
王政国家でした。

日本の場合、治める人が変わっても
ずっと日本人が治めていましたが、
中国の場合「清」は満州族、
「明」は漢族、
「元」はモンゴル人が国のトップでした。
治める民族が違うので国の名前も
その都度変更していました。

今の中国は漢族の人たちが治めている
「中華人民共和国」という国です。
漢族の人たちが「共産党」という政党名で
「社会主義」国家をつくろうとしている。
ということになります。

中国の目指す「社会主義国家」という国は
私たちの生きる「資本主義国家」とは
だいぶ違う感じの国家です。
他の国のことなので何でもいいんですが、
最近の中国のイケイケぶりを見ていると
なぜそんなことをするのか
次に何をしてくるのかが読めずに
ちょっと不安に感じます。

そこで、ここではその中華人民共和国を
「社会主義」という考え方で
どのようにまとめようとしたのか
その歴史について詳しく解説します。

ヨーロッパの侵略から脱却

1949年に中華人民共和国がつくられてから
政権を握っているのは「中国共産党」です。
「中国共産党」が初めての大会を中国で
開いたのは1921年のことでした。

そのころの中国はイギリス、ドイツ、
フランス、ロシア、そして日本からの
侵略を受けて国土は半植民地化され
不平等な条約を結ばされ、
国土が奪われ、自治権をなくし
鉱山などの利権を奪われ、
後に呼ばれる「屈辱の100年」の最中でした。

中国はヨーロッパから始まった
近代化のメリットを受けることなく
その足掛かりとして利用され
中国国民はヨーロッパの
「資本主義」に不信と恨みを
植え付けられたのでした。

ソ連の指導者

そこへ現れたのはロシアの共産党員です。
彼らは「ロシア革命」を成功させ、
自信を深めていました。

ロシア革命を成功させたスターリンは
さらなる敵であるヨーロッパに勝つには、
ロシアだけではなくほかの国と一緒に
戦わなければ勝てないと考えていました。

そこでヨーロッパが持っている
「資本主義」に対抗するための
「社会主義」という考えを持つ国を
増やすため「コミンテルン」という
団体をつくり、世界中に党員を派遣し
「社会主義国」をつくるための
指導を行ったのでした。

中国はこのロシアからの指導の下で
国づくりを行っていくことになります。

共産党のつくる社会

コミンテルンからの指導によって
行われた政策の数々は次の通りです。

まず、国の政策は共産党だけがつくります。
共産党員のトップがあらゆる組織を
「指導」してものごとを進めるのです。
各自が自由に政策を実行してはいけません。
からなず共産党の許可が必要です。

決まった政策は必ず従わなければいけません。
従わない人は社会的に「排除」
または「罰」を与えます。

政策がうまくいかなければ
従わなかった人のせい、
ということになります。

そして「配給制」があります。
人々の生活に必要なものは
国の運営する工場で作ったものが
配給されます。食べ物も洋服も
自転車もみんな配給されます。

「財産所有の禁止」
人々は自分で財産を持つことが禁止されていて
与えられた土地で決められた作物をつくり
つくったものは「国」に収めなければ
いけません。

「資本主義」は財産を持っているから
不公平な社会をつくる、
財産を持てなくして、すべて国に納めさせ
それを公平に分配すれば
公平な社会が実現できる、という考え方です。

不公平な社会をつくらないというのは
とても大事で、何が大事かといえば
公平な社会を目指すのだから
我々共産党だけが権力を持っていいのだ。
という理由に正当性を持たせることができるのです。

そのような正当な理由がないと、
ほかの人に政治のかじ取りを任せたい
と、みんなが思ったときに
みんなを納得させることができません。

毛沢東の独裁へ

中華人民共和国の初代主席の毛沢東は
1952年地主から土地を取り上げ
農民に分け与える法をつくります。
当時国民の8割が農民だったので
タダで自分の土地が手に入った農民は
毛沢東のこの政策は熱狂的に支持されます。

逆に毛沢東は共産党のやり方に批判的な
知識人とその家族に対して弾圧し、
職を取り上げ、投獄していきます。

政府のしていることを批判する人は排除し
急速に社会のしくみを変えていきました。
初めは上手いっているように見えましたが
人を締め付けた強引のやり方に、
ついていけない人が出ると、
さらに締め付けを強める、といったことが
繰り返され中国は荒廃していきます。

これは毛沢東が亡くなるまで続いたのでした。

まとめ

中国がどのように社会主義を
選んだのか、そのしくみについて
解説しました。

ロシア革命を成功させた
レーニンが世界に社会主義を広めるために
共産党員を中国に送ったのが始まりでした。

「社会主義」国家の中では
自分で作るものを選べず
その土地、道具さえ借り物で
作ったものもすべて取り上げられます。
このようなやり方をすると
どんなに人でもやる気がなくなっていきます。
さらに決められた目標に届かないと
罰せられるとなると嘘や汚職が広がって
さらに悪い結果になります。

そうして中国は生産性を上げられず
人々と国土は荒廃していったのでした。

中国の「屈辱の100年」からの脱却は
毛沢東の政策ではできませんでした。
それは毛沢東の亡くなった次の年から始まります。

次回はその脱却の成功について見ていきます。

参考文献

コミンテルン/第三インターナショナル/共産主義インターナショナル (y-history.net)
第19回 なぜ社会主義国で格差が生じるのですか?《おしえて!知りたい!途上国と社会》(荒神 衣美) - アジア経済研究所 (ide.go.jp)
そうだったのか!中国 池上彰
最新世界史図説 タペストリー 帝国書院

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